ヤバイ言葉 「サーラレーオ」

小説のタイトルをつける作業というのは、いったんつまずくと延々と頭を悩ませるものだが、今回の「サーラレーオ」に関しては私にしてはめずらしくほとんど迷うことがなかった。

 

群像の森川さんと一緒に仕事をしようというだけで、まだなにを書くかなにひとつ決まっていないとき、私たちは永田町のホテルで昼食をとりながらどのような小説を書くか、書けそうなのか、書くべきなのか意見をかわした。

いくつものアイデアが店内の控えめなざわめきの中に消え、あるいはこの打ち合わせの中で方向性を打ち出すのは難しいかなと思いかけたが、食後のコーヒーが運ばれてきたころには、あっさりと、タイのバンコクを舞台にした日本人売人の話でいってみようかと意見がまとまっていた。

 

打ち合わせ後、私はその足で仕事場にもどると、熱が冷めないうちにまとまった意見を反映させたアウトラインを起こした。仕事場に歩いてもどる途中、小説の細部について構想を練りながらも、タイトルはタイ語でいこうという考えはすでに頭にあったかと思う。

タイ語に関する資料をながめ、辞書を引き、その中で眼に留まった「サーラレーオ」を仮のタイトルとした。その後、雑誌発表前に一度は別のタイトルにしかけたが、やはり元の方がいいということで、「サーラレーオ」に落ち着いた。

 

 

ところで、タイ語の「サーラレーオ」を辞書で引くと、「すべて悪い」とか「最低最悪」、そこから転じて「人でなし」といった日本語が訳出されるようなのだが、タイ人の方々からするとかなりヤバイ言葉にあたるらしい。

ひらがな、カタカナ、漢字をようする日本語は言語表現が豊かで、略語や造語、方言や隠語、近年急速に幅をきかせているネットスラングなども考慮すれば、他言語を圧倒するように思えるが、こと「ヤバイ」言葉に限っては、さほど過激な表現は見当たらないような気がする。文脈や状況によってヤバイ意味となる言葉はそれこそ無数にあるだろうが、文脈や状況にかかわらず一発必中となるヤバイ言葉は数えるほどしか思い浮かばない。

 

 

そのせいもあって、この「サーラレーオ」がヤバイ言葉であり、少なくとも人前で口にしてはならないとわかっても、それがどれほどのものか感覚的にいまひとつわからなかった。

雑誌掲載の段階ではそのような認識でまったく問題はなかったものの、いよいよ単行本化されるとなったとき、このタイトルで果たして問題ないのか、と編集者の加藤さんを介して校閲から疑義が告げられた。本当に出版物のタイトルとして出してもよい言葉なのかどうか確認した方がいいのではないかというのだ。

その指摘はもっともだった。日本語だけならまだしも、装丁にはタイ語の表記まである。単行本は国内むけに販売されるとはいえ、電子書籍版もあり、その気になれば国外から簡単にアクセスできる。一歩間違えれば、国際問題にだってなりかねない。

個人的には、作品の主題と関連する字義や語感から「サーラレーオ」という言葉を気に入っており、できることなら変更せずにいきたかったが、国際問題ということであれば、そうも言っていられなくなった。

 

 

急遽、バンコクに駐在している友人やライターに連絡をとり、加藤さんと手分けして「サーラレーオ」の出版妥当性を現地の視点から確認することとなった。
多くのタイ人の方々から意見を集めたが、結論から言うと、出版してもさして大きな問題にはならないだろうという判断にいたった。「サーラレーオ」はたしかにヤバイ言葉だが、どうも文学的ないし古典的な香りをはらんでいるらしく、むしろ書籍のタイトルとしてふさわしいのではといった意見も聞かれたりした。

これによって無事に「サーラレーオ」のタイトルは無事に維持されることとなったが、しかし興味深かったのは、現地のタイ人の方々の反応だった。協力してくれた友人やライターさんの報告によると、「サーラレーオ」と聞いて、ある人は恥ずかしそうにうつむき、ある人は眼を丸くして驚いたり、またある人は驚きまじりに笑ったりしたのだという。私もその反応を自分の眼で見たかったなと呑気に笑っていたが、しかし、軽々しく実行には移さない方がいいかもしれない。

 

 

現地駐在の友人が、タイトルの調査に協力してくれたあと、都市部から離れた地方に会食に招かれたのだという。

その席で、会食に招いてくれた現地有力者に「なにか知ってるタイ語はあるか」と聞かれた彼は、少しでも親睦を深めようと、ガイドブックにのってるようなタイ語ではなく、通ぶって「サーラレーオ」と口にしたらしい。瞬間、その場の空気が凍りついた。不穏な空気が流れ、見れば、柔和にもてなしてくれていた現地有力者の表情が怒気に満ちている。そのままでは座がおさまりそうになく、彼は冷や汗を流しながら、ハラキリのパフォーマンスでどうにか窮地を乗り切ったという。

 

 

「サーラレーオ」、ヤバイ言葉。取り扱いには注意したい。