情熱の耐久力

『昼顔』、『容疑者Xの献身』、『シン・ゴジラ』など数多くの作品に助監督としてたずさわってきた大庭功睦監督が、自身二作目となる映画『キュクロプス』を自主制作し、このたび全国で一般公開される運びとなった。大庭監督作品では、本作が劇場公開はじめてということで、古くから付き合いがあり、陰ながら応援してきた私としても素直に嬉しい。

 物語は、妻とその愛人を殺害した罪で刑務所に服役した男を中心にすすむ。男は出所後に、なかば周囲にまきこまれるような形で、事件の真の犯人を追求していくが、しかし……。

 これは、いわゆる復讐譚の一種と言ってしまって差し支えないかと思う。一般に復讐劇は、物語を牽引する登場人物の動機が明確で、硬固なぶん、話の流れが単調になりやすい。本作品においては、受け手の関心が途切れぬよう、随所にミスリードさせる工夫が織りこまれており、最後まで緊張感を持続させることに成功している。

 自主制作というと、予算的な制約や作り手の未熟さのためか、受け手の想像力に依存しきったような、柄の小さい作品が少なくない。その点、『キュクロプス』は、自らの足で踏ん張り、少しでも柄を大きくしようとする意図が透けて見える。実際、その試みはほとんど実を結んでいるように思え、いい意味で自主制作に似つかわしくない出来となっている。

 この作品が、そのような大きな柄を描けたのは、ひとえに、主演の池内万作をはじめとする俳優陣の演技や、普段から一線の現場で活躍するスタッフ陣の支えがあったからに他ならない。しかし、叙情的な色合いの濃い前作『ノラ』から、打って変わって作品の方向性を転換し、潤沢とはいえない予算の中で、自主制作の枠組みを乗り越えようとこころみた、大庭監督の野心が根底に影響していることも、また疑いようがないかと思われる。

 物語の終局、池内万作演じる主人公が、すべてをやり切ったとでも言いたそうな、安堵に似た表情をうかべる。それがどことなく、大庭監督の表情と重なって映ったのは、単に私の思い過ごしなのか、どうか。

映画『キュクロプス』

 大庭監督、いや、ノリちゃんと知り合ったのは、学生時代にアルバイトをしていた居酒屋だった。アルバイトが終わると、しばしば皆でノリちゃんのアパートに寄り、酒を呑みながら夜通しいろいろな話をしたのをよくおぼえている。

 大学を卒業後に映画の専門学校にかよっていたノリちゃんは、寡黙だが博識だった。当時、人生の目的を見い出せず、毎日ふらふらしていた高校生の私にとって、ノリちゃんから聞く話はどれも新鮮に感じられた。映画や小説、あるいは音楽にとどまらず、いろいろなことを教わった気がする。もしあのときノリちゃんと知り合っていなければ、その後一念発起して大学を受験することも、会社勤めをあきらめて小説を書くこともなかったかもしれない。

 もっともそれは、単に未知の情報を浴びたことによって、私の内部にかろうじて残されていた知的好奇心や、もてあました功名心が刺激されたせいだけではなかったかと思う。

 ノリちゃんの語り口は、大柄な外見に反してぼつぼつとしていて淡白だが、そこにはいつだって、注意すれば感じとれるある一定の熱量があった。とりわけ映画について口をひらくと、その熱量は飛躍的にまし、ときに聞いているこちらの胸の深部にまで達した。

 うがった見方をすれば、その種の情熱は、世間知らずの学生にありがちな青臭い粋がりのようなものだったのかもしれない。実際、周囲には、映画人としての未来を語るノリちゃんに対して、冷ややかな眼で見るものはいたし、私自身、無自覚のうちにそれに似た態度をとっていた気がする。

 しかしノリちゃんは、そのような、おそらく無数に受けてきただろう浅薄かつ無責任な批判に耐えた。自己を研鑽しながら、二十年近くにわたり、ひっそりと内にたぎる情熱の火を守ってきた。華やかな世界に見えがちだが、その裏側はなかなか大変と聞くから、言うほど簡単なことではないと思う。

 多くのひとがこの『キュクロプス』にたずさわり、そうしたひとたちの惜しみない協力によって作品は完成を見た。だが同時に、ノリちゃんが長く育んできた情熱なしには、劇場公開は言うにおよばず、作品自体この世に存在しえなかったにちがいない。

 あの、映画のDVDや書物でいっぱいになったアパートの一室で、ノリちゃんの映画にかける熱い思いを聞いていた一人として、いまあらためてその感を強くする。