桜の森の満開の下

 

午後、出版社での打ち合わせを無事に終える。

 

仕事場にもどって原稿のつづきを書こうかと思ったが、外は春の心地よい陽気に満ち、桜が見頃をむかえているとなれば、夜更けまで部屋にこもっているのはもったいないような気がしてくる。朝家を出るときからなかば予期していたように、仕事場にはもどらず、そのまま歩いて千鳥ヶ淵公園まで行くことにした。

 

 

園内のソメイヨシノはちょうど満開だった。平日の昼間ということもあって歩けないほどではなかったものの、それでも大勢の花見客が列をなして観賞していた。外国人観光客の姿も少なくない。夜はライトアップされるらしく、もう少し遅い時間にきて夜桜をながめるのも悪くなかったかもしれない。昼間とはまったくちがう光景がひろがっていることだろう。

 

花見を愉しむ人波に身をゆだねるようにだらだらと歩いているうち、そう古くない記憶がよみがえってきた。

 

 

その喫茶店を知ったのはなにかの雑誌だったかと思う。都心のど真ん中にありながら、路地裏にたたずむ店内はひっそりとして居心地がよく、ペーパードリップで丁寧に抽出した珈琲を淹れてくれる。決して安い店ではなかったから、なかなか頻繁には行かれないが、それでも懐に余裕があるときやなにかいいことがあったときなどは、ふとこの店を思い出して、その趣きある木戸を開けることになる。入り口からはまっすぐにカウンターがのび、奥の大きなテーブル席には立派な花瓶が置かれていて、そこではいつ見ても盛大な生け花が季節をいろどっている。

 

記憶が正しければ、その日、テーブル席の花瓶にはソメイヨシノの枝が幾本も生けてあり、天井いっぱいに満開の桜をひろげて店内をいつにもまして華やかにしていた。

 

私は、カウンターの一席に座り、珈琲を注文してから手元の文庫本に眼を落とした。カウンターのむこうでは、何人かの店員があわただしく動いていて、その中にはいつも見かける壮年の男性店員もいた。五十歳は超えているだろうか。物静かな店員だが、いかにも気が弱そうに映り、ときどき、無駄のない動きで次々と注文をさばいていく隣の店主らしき若い男性から、そのゆったりと見えないでもない仕事ぶりを注意されている。それでも、当人は不満をかかえている様子はなく、その状況を引き受けながら、淡々とデザートを用意したりレジを打ったりしていた。

 

どれくらい時間が経っただろう。

 

本の世界に没入していると、その寡黙な店員が、私の隣に座った客とめずらしく笑い混じりに言葉をかわしている。客の声は女性だった。気になり、どんな相手だろうとさりげなく眼をやると、中学生ぐらいの少女が愉しそうに話しかけている。とっさにどのような関係なのだろうと思った。常連なのかなとも思ったが、珈琲一杯が千円近くする店に、まだアルバイトもできないような少女が頻繁に来られるとは考えにくい。年は少し離れているように見えるが、やはり親子ということになるのだろう。しかし、なんといえばいいのか、親子にしては店員の少女に対する受け答えが優しすぎる。家族だからこそ許されるような馴れ馴れしさも、押し付けがましさも、あるいはその反発からくる余所余所しさもない。ただ優しく見守っている。そんな感じがするのだ。

 

悪いなと思いつつ、それでも気になって、私は文庫本を読むふりをしながら彼らの会話に耳をたてた。

 

予想したとおり、どうやら彼らは親子らしい。少女の隣には同じ年頃の男の子がすわっていて、二人で原宿にデートをしてきた帰りに少女の父親が働いているこの店に寄ったのだという。少女は、どこに行ってなにを食べたのかその感想を明るい表情で父親に話し聞かせている。父親はその話を嬉しそうにうなずいて、そうなんだ、と短く言葉を返している。

 

少女の熱心な話し声を盗み聞きしているうち、だんだんと私には、彼女が父親を励ましているように感じられてきた。もしかしたら娘ながら父親の気の弱さを敏感にすくいとり、健気にふるまって父親を勇気づけようとしているのか、どうか。

 

ふと見れば、いつもは眼光するどく店内に気をくばっている若い店主も、店員と少女のやりとりをながめながら表情をゆるめている。私は文庫本を閉じた。視線のやりばに困りながら珈琲の残りをすすると、すっかり冷めてはいたが、不思議といつもよりもほんの少しだけおいしく感じられた。